村野藤吾研究会
2009年 12月 23日
--------------------------------------------------------------------
「私にとっての村野藤吾」
1984年のこと、私は修士論文を無謀にも「村野藤吾の建築作品に関する研究」と決め準備を始めていました。
資料等の準備もほぼ整いこれからいよいよ執筆にかかろうとした頃、その年の11月に村野先生は93歳で亡くなられました。
翌日の新聞報道で、たしか「なくなるその日まで阪急電車で心斎橋の事務所まで通われ、最後はたたみの上で穏やかに息を引き取られた」というような記事を読んだ記憶があります。
90歳を超えてまだ村野イズムを投影した作品を世に送り続けたそのエネルギーと生き様には大きな感動を覚えたものでした。修士論文は今思うと、よく修了させていただけたものだと思うほどの恥ずかしい内容ですが、論文を完成させるために見て回った作品の数々には当時大きな感動を受けました。
写真では絶対に得られない空間体験が村野建築の魅力でした。
様々なシーンが時間とともに出現し、最終的にそれらがまるで小説のように完結するのです。そんな空間体験を大正デモクラシーの小説に重ね合わせて論じたりもしました。
村野作品の空間体験は今でも私自身の建築の原点にあるような気がしています。